おいなりななお 1の2
文化祭もあと数日ともなると、ほとんどの生徒達は日が沈みきるまで準備にいそしむようになる。部活動に参加している生徒はその部の出し物を。参加していない物はクラスの出し物を。委員会に参加している人は、運営のための仕事を。文化祭に限らず、準備の最中はとても楽しいものである。校舎は浮かれ気分に包まれていた。
奈々緒はというと、彼女は本来、帰宅部だ。部活にも委員会にも参加はしていない。なのに今、生徒会室で役員達に混じって文化祭の仕事を行っていた。もちろん、生徒会長が強制しているのだ。文句を言う人間はいない。生徒の自主性を重んじる校風のせいか、生徒会はいつでも忙しい。可能な限り読書を優先する癖と、たまに性格が変わるのを除けば、真面目に仕事をこなしてくれる奈々緒はありがたい存在だった。
奈々緒としても、生徒会の仕事を手伝うは当たり前のことになっていた。葵の強要という事にはなっていても、それは形だけの物。もはや彼女にとって、生徒会室は図書室に続いて落ち着ける場所となっていた。
奈々緒はというと、彼女は本来、帰宅部だ。部活にも委員会にも参加はしていない。なのに今、生徒会室で役員達に混じって文化祭の仕事を行っていた。もちろん、生徒会長が強制しているのだ。文句を言う人間はいない。生徒の自主性を重んじる校風のせいか、生徒会はいつでも忙しい。可能な限り読書を優先する癖と、たまに性格が変わるのを除けば、真面目に仕事をこなしてくれる奈々緒はありがたい存在だった。
奈々緒としても、生徒会の仕事を手伝うは当たり前のことになっていた。葵の強要という事にはなっていても、それは形だけの物。もはや彼女にとって、生徒会室は図書室に続いて落ち着ける場所となっていた。
おいなりななお 幕間1
無限に続くと思わせるほど長大な廊下を、童女は走っていた。おかっぱで、朱色の単衣を纏っている、まだ十にも満たないだろう子供だ。しかし、あまり愛らしくはない。体を構成する部分を一つ一つ見て行けば美しいのに、全体を見ると崩れているように思える。それが違和感となり、奇怪な雰囲気を醸し出していた。
童女の目線の先には、童子がいた。こちらは十を少し過ぎた頃合いか。上等な着物を纏い、やんちゃな笑みを浮かべて童女から逃げている。
「いい加減止まってください」
「奉炎が先に止まったらどうじゃ」
「俺が止まったら、創司様が逃げちゃうでしょうが!」
「もちろんじゃとも。だって、お前、怒ってるじゃないか」
怒られるのが解っていて止まる馬鹿はいないと言わんばかりの、童子の言葉だった。
「創司様がイタズラするからでしょう! お、俺をこんな姿にするなんて!」
奉炎は叫んだ。元々は童女ではなく、立派な男の武人なのである。それがこんな姿になったのは、目の前を走る童子が術でもって奉炎の姿を変えてしまったからだ。最強の一角と誉れ高い武人である奉炎にとっては、この姿は屈辱である。他者の目がないのが救いだけれど、出来る限り早く元の姿に戻りたかった。無理矢理に解除することも可能ではある。でも、仮にも主の術だから、出来ることなら創司自身に解いて貰いたかった。
「こんなもなにも、女について予習しておけと行ったのはお前ではないか」
「だからこんな事をしたと? 渡した書物を読めばよいでしょうに」
創司はずっと屋敷に閉じ込められて生きてきた。ほとんどの知識は伝聞と書物に頼っていて、それだけ聞くとかわいそうに思える。でも決して、疎まれているわけではない。むしろ、多くの祝福を受けて生まれ、今も最大限の愛情を込めて育てられている。そんな創司が幽閉されているのには理由があった。
帝の、数千年ぶりの子供である創司は、その血に恥じることのない、見事な力を持って生まれてきた。けれど、彼の魂は純粋すぎて、些細なことで汚染されてしまうほどだった。だから帝は、我が子を囲うことにした。万全の防備を整えた屋敷を用意し、信頼できる者に世話を任せて、彼が自分自身の魂を守ることが出来る力を得られるように。
それと創司は今まで女と会話したことがない。母親の顔すら覚えていない。会わせて貰えないのだ。それは女の陰の気の影響を避けるためだった。彼の魂の性別は男だ。でも陰の気の影響で性が狂ってしまいかねない。久しぶりに生まれた子供、それも男子だ。女子になるような危険は避けたかった。
しかし、そんな日々ももうすぐ終わる。時を得て成長し、他者の影響から身を守るだけの力を得たのだ。近いうちに、彼は母親をはじめとした、いろいろな者達と出会うだろう。そしてさらなる成長をとげ、ゆくゆくは帝の名を継ぎ、この神世を治めるのだ。
「それにしても奉炎。お主、どうにも変てこな形になったのう。女はみんなそうなのか」
ふと立ち止まった創司は、無数に存在する戸の一つに手をかけながら、そんなことを言い出した。それで奉炎は思いっきり首を振った。
「そんなわけないでしょう。これは創司様に女の知識が足りなかったせいです」
変化の術は、想像力が成功の鍵だ。よく知りもしないものには上手く変化できないし、させられないのだ。
「では奉炎。本当の女とはどんなものじゃ?」
戸を引き、部屋に入っていく主の後に続きつつ、奉炎は首をかしげた。
「どんな、といわれましても」
問われて奉炎は思い浮かべてみた。まずは昔なじみの姿を。しかし、そいつを創司に会わせるのはどうにも刺激が強すぎるように思える。やはり子供には、子供がふさわしい。ではどのような子供が良いだろうか。彼の成長を良い方向へ促すような才女だろうか。姿形のほどは、やはり。
「ふむ。そうなのか」
いつの間にやら眼鏡をしていた主の姿に奉炎は、はっとした。その眼鏡は見覚えがある。創司が作ったおもちゃの一つで、相手の心が絵や文字として移って見えるという代物だ。慌てて部屋を見渡すと、見渡す限りおもちゃの山があった。中には奉炎や他の奉仕人が作ったものもあるけれど、ほとんどは創司の手によるものだ。童子はそうした力ある道具を作り出す才能に秀でていた。
「こんな感じかな?」
創司が言霊を紡ぎ出した。奉炎はそれを止めようとしたけれど、遅かった。手が届く前に術が発動し、奉炎の体が煙に包まれた。
「だから、他者にそう軽々と術を使ってはならないと何度も言っているでしょう!」
煙の中から、創司と同じぐらいの年頃の童女が飛び出し、叫んだ。今度は、不自然な所はない、見る目麗しい少女の姿だ。
「もちろん弁えておるとも。儂はお主以外のものに、術を使ったことなどない」
えへんと胸を張る創司に、奉炎はため息をついた。
「まったく、困ったお方だ……」
「術も、今度はうまくいったようじゃ。ちょっと変わってるのは同じじゃが、へんてこなところは無いように見えるぞ」
眼鏡で見た映像と記録を元に術を使ったのだ。それはつまり、奉炎の記憶に頼ったものということであり、うまくいくのは当然だった。
「おっと、お主は見られぬか。ちょっと待っておれ、確かこのあたりに鏡が……」
「はあ……って、ここにある鏡は物を映すものでは無いはずでは」
奉炎も、ずっと創司に仕えてきたのだから、彼が何を作り、何処に放置したかを大体は覚えている。記憶が確かなら、この部屋にある鏡は、人の世界を映し出すものであるはずだった。しかもそれは失敗品で、あまりにも遠くからしか世界を映せないので、世界の、星の丸い形しか解らず、詳細がまったく見えない代物だった。
この部屋には、その鏡だけではなく、いろいろな失敗作が眠っている。先ほどの眼鏡のような成功作と失敗作が入り交じっているのは、奉炎としては喜ばしい状態ではなく、次巻があるときを使って整頓しているのだけど、いかんせん数が多すぎて、なかなか進まないのが現実だった。
「うーん。ないのう」
創司は、奇怪な動物が描かれた本を適当に投げ捨てながら呟いた。本は他のおもちゃの山にぶつかり、滑り落ちていった。
「だから日頃から整理整頓をしなさいと申したでしょうに」
「儂は面倒なのは好かんのだ」
「今、とても面倒なことになっているではありませんか。こうならないための整頓ですよ」
「ええい、そんな真っ当そうなことを言っても、ごまかされんぞ」
的外れなことを言い出した童子に、奉炎はまたため息をついた。
「そんな言葉で濁せると思っているんですか」
「ふんだ。ほれ、見つかったぞ鏡」
そっぽを向きつつも手鏡を差し出してきた。奉炎は恭しくそれを受け取ると、鏡をのぞき込んだ。青くて丸い星が浮かんでいるのが見えるけど、自分の顔は映らない。
「そうじゃない。この宝玉の部分をだな……わっ!」
創司が宝玉に触れたとき、鏡から光が放たれた。それに驚いた創司は一歩退き、その拍子に床に落ちていたおもちゃの一つに足を取られて転んでしまった。その衝撃で、おもちゃの山が雪崩を起こした。
「創司様!」
雪崩に巻き込まれる前に、奉炎は創司の手を取り引っ張っぱり、胸に抱き留めた。
「まったく……大丈夫ですか?」
「…………。奉炎」
「なんでしょう」
「なんかお前、ちょっと胸がふかふかしてるぞ」
「はあ……って、なにしてるんですか!」
膨らみかけの胸をさすられて、奉炎はうろたえた。おもわず突き放しそうになり、ぎりぎりで堪える。
「うーむ、不思議じゃ。女とはこうも胸が柔らかい物なのか……」
「まあ大抵はそうですが。言っておきますが、本物の女性と会った時、こんな事をむやみにしてはいけませんよ。これは礼儀に反する行為です」
何故男なのに、男の子に胸を触られなければならないのかという思いをかみしめつつ、奉炎は言った。
「そうなのか。それは気をつけなければ……いやしかし、これは癖になりそうじゃ」
「ならないでください! それより、この鏡、ずっと光ってますけど大丈夫なんですか」
「むっ。むう……確かに、これは大変じゃ」
「そもそも、何故こんな光が?」
「うむ、暗いところが照らせたら便利だなと思ったのじゃ。えと、どう止めるんだっけ」
あれこれいじくっていると、鏡の輝きは更に増した。最初は薄暗い天井の一角を明るくするのみだったのに、今では部屋の奥まで照らさんばかりである。
「強くなっていますよ」
「う、うるさい。えっとえっと……あれ?」
ふいに、創司の動きが止まった。嫌な予感が胸に宿るのを自覚しつつ、つとめて奉炎は冷静に尋ねた。
「どうしましたか」
「こ、壊れてもうた」
「………………」
三度目のため息。こうなってしまっては廃棄するよりほかない。このように力を持った物品を砕いて捨てるための部屋に運んで、そこで処理する。そう考えたその時だった。
「うわっ」
光に照らされたおもちゃ達が動き出した。いや、正確には、光に吸い寄せられているのだ。
明らかな緊急事態に、奉炎の思考が加速した。全力で創司に駆け寄り、鏡を奪い、まずは伏せる。それらの行動を取ろうとして、奉炎は舌打ちしそうになった。変化の術の影響か、体の動きが遅い。歯がゆい思いをしている間にも、たった今、最も近くにあった鵺の形をした門番の置物が鏡に吸い込まれていった。その他にも、先ほど投げ捨てられた動物の本も呑まれていく。
「わっ! わっ!」
慌てた創司が、鏡面を右手で覆った。光は閉ざされ、浮かび上がったおもちゃ達は床に落ちたけれど、代わりに創司の手が吸い込まれていく。
「創司様!」
ようやく創司の左手を掴んだ。動き出して、二つか三つ瞬きをするだけの短時間だったけれど、しかしこの時点で創司の体のほとんどが鏡の中だった。奉炎もまた吸い込まれようとしている。抵抗するが、とても敵わない。もはや舌打ちする時間すらない。奉炎はせめてこれだけはと、まだ無事であった左手で無数の印を結んだ。
奉炎の術が発動するのと、体が完全に鏡に飲み込まれるのは、全くの同時だった。
童女の目線の先には、童子がいた。こちらは十を少し過ぎた頃合いか。上等な着物を纏い、やんちゃな笑みを浮かべて童女から逃げている。
「いい加減止まってください」
「奉炎が先に止まったらどうじゃ」
「俺が止まったら、創司様が逃げちゃうでしょうが!」
「もちろんじゃとも。だって、お前、怒ってるじゃないか」
怒られるのが解っていて止まる馬鹿はいないと言わんばかりの、童子の言葉だった。
「創司様がイタズラするからでしょう! お、俺をこんな姿にするなんて!」
奉炎は叫んだ。元々は童女ではなく、立派な男の武人なのである。それがこんな姿になったのは、目の前を走る童子が術でもって奉炎の姿を変えてしまったからだ。最強の一角と誉れ高い武人である奉炎にとっては、この姿は屈辱である。他者の目がないのが救いだけれど、出来る限り早く元の姿に戻りたかった。無理矢理に解除することも可能ではある。でも、仮にも主の術だから、出来ることなら創司自身に解いて貰いたかった。
「こんなもなにも、女について予習しておけと行ったのはお前ではないか」
「だからこんな事をしたと? 渡した書物を読めばよいでしょうに」
創司はずっと屋敷に閉じ込められて生きてきた。ほとんどの知識は伝聞と書物に頼っていて、それだけ聞くとかわいそうに思える。でも決して、疎まれているわけではない。むしろ、多くの祝福を受けて生まれ、今も最大限の愛情を込めて育てられている。そんな創司が幽閉されているのには理由があった。
帝の、数千年ぶりの子供である創司は、その血に恥じることのない、見事な力を持って生まれてきた。けれど、彼の魂は純粋すぎて、些細なことで汚染されてしまうほどだった。だから帝は、我が子を囲うことにした。万全の防備を整えた屋敷を用意し、信頼できる者に世話を任せて、彼が自分自身の魂を守ることが出来る力を得られるように。
それと創司は今まで女と会話したことがない。母親の顔すら覚えていない。会わせて貰えないのだ。それは女の陰の気の影響を避けるためだった。彼の魂の性別は男だ。でも陰の気の影響で性が狂ってしまいかねない。久しぶりに生まれた子供、それも男子だ。女子になるような危険は避けたかった。
しかし、そんな日々ももうすぐ終わる。時を得て成長し、他者の影響から身を守るだけの力を得たのだ。近いうちに、彼は母親をはじめとした、いろいろな者達と出会うだろう。そしてさらなる成長をとげ、ゆくゆくは帝の名を継ぎ、この神世を治めるのだ。
「それにしても奉炎。お主、どうにも変てこな形になったのう。女はみんなそうなのか」
ふと立ち止まった創司は、無数に存在する戸の一つに手をかけながら、そんなことを言い出した。それで奉炎は思いっきり首を振った。
「そんなわけないでしょう。これは創司様に女の知識が足りなかったせいです」
変化の術は、想像力が成功の鍵だ。よく知りもしないものには上手く変化できないし、させられないのだ。
「では奉炎。本当の女とはどんなものじゃ?」
戸を引き、部屋に入っていく主の後に続きつつ、奉炎は首をかしげた。
「どんな、といわれましても」
問われて奉炎は思い浮かべてみた。まずは昔なじみの姿を。しかし、そいつを創司に会わせるのはどうにも刺激が強すぎるように思える。やはり子供には、子供がふさわしい。ではどのような子供が良いだろうか。彼の成長を良い方向へ促すような才女だろうか。姿形のほどは、やはり。
「ふむ。そうなのか」
いつの間にやら眼鏡をしていた主の姿に奉炎は、はっとした。その眼鏡は見覚えがある。創司が作ったおもちゃの一つで、相手の心が絵や文字として移って見えるという代物だ。慌てて部屋を見渡すと、見渡す限りおもちゃの山があった。中には奉炎や他の奉仕人が作ったものもあるけれど、ほとんどは創司の手によるものだ。童子はそうした力ある道具を作り出す才能に秀でていた。
「こんな感じかな?」
創司が言霊を紡ぎ出した。奉炎はそれを止めようとしたけれど、遅かった。手が届く前に術が発動し、奉炎の体が煙に包まれた。
「だから、他者にそう軽々と術を使ってはならないと何度も言っているでしょう!」
煙の中から、創司と同じぐらいの年頃の童女が飛び出し、叫んだ。今度は、不自然な所はない、見る目麗しい少女の姿だ。
「もちろん弁えておるとも。儂はお主以外のものに、術を使ったことなどない」
えへんと胸を張る創司に、奉炎はため息をついた。
「まったく、困ったお方だ……」
「術も、今度はうまくいったようじゃ。ちょっと変わってるのは同じじゃが、へんてこなところは無いように見えるぞ」
眼鏡で見た映像と記録を元に術を使ったのだ。それはつまり、奉炎の記憶に頼ったものということであり、うまくいくのは当然だった。
「おっと、お主は見られぬか。ちょっと待っておれ、確かこのあたりに鏡が……」
「はあ……って、ここにある鏡は物を映すものでは無いはずでは」
奉炎も、ずっと創司に仕えてきたのだから、彼が何を作り、何処に放置したかを大体は覚えている。記憶が確かなら、この部屋にある鏡は、人の世界を映し出すものであるはずだった。しかもそれは失敗品で、あまりにも遠くからしか世界を映せないので、世界の、星の丸い形しか解らず、詳細がまったく見えない代物だった。
この部屋には、その鏡だけではなく、いろいろな失敗作が眠っている。先ほどの眼鏡のような成功作と失敗作が入り交じっているのは、奉炎としては喜ばしい状態ではなく、次巻があるときを使って整頓しているのだけど、いかんせん数が多すぎて、なかなか進まないのが現実だった。
「うーん。ないのう」
創司は、奇怪な動物が描かれた本を適当に投げ捨てながら呟いた。本は他のおもちゃの山にぶつかり、滑り落ちていった。
「だから日頃から整理整頓をしなさいと申したでしょうに」
「儂は面倒なのは好かんのだ」
「今、とても面倒なことになっているではありませんか。こうならないための整頓ですよ」
「ええい、そんな真っ当そうなことを言っても、ごまかされんぞ」
的外れなことを言い出した童子に、奉炎はまたため息をついた。
「そんな言葉で濁せると思っているんですか」
「ふんだ。ほれ、見つかったぞ鏡」
そっぽを向きつつも手鏡を差し出してきた。奉炎は恭しくそれを受け取ると、鏡をのぞき込んだ。青くて丸い星が浮かんでいるのが見えるけど、自分の顔は映らない。
「そうじゃない。この宝玉の部分をだな……わっ!」
創司が宝玉に触れたとき、鏡から光が放たれた。それに驚いた創司は一歩退き、その拍子に床に落ちていたおもちゃの一つに足を取られて転んでしまった。その衝撃で、おもちゃの山が雪崩を起こした。
「創司様!」
雪崩に巻き込まれる前に、奉炎は創司の手を取り引っ張っぱり、胸に抱き留めた。
「まったく……大丈夫ですか?」
「…………。奉炎」
「なんでしょう」
「なんかお前、ちょっと胸がふかふかしてるぞ」
「はあ……って、なにしてるんですか!」
膨らみかけの胸をさすられて、奉炎はうろたえた。おもわず突き放しそうになり、ぎりぎりで堪える。
「うーむ、不思議じゃ。女とはこうも胸が柔らかい物なのか……」
「まあ大抵はそうですが。言っておきますが、本物の女性と会った時、こんな事をむやみにしてはいけませんよ。これは礼儀に反する行為です」
何故男なのに、男の子に胸を触られなければならないのかという思いをかみしめつつ、奉炎は言った。
「そうなのか。それは気をつけなければ……いやしかし、これは癖になりそうじゃ」
「ならないでください! それより、この鏡、ずっと光ってますけど大丈夫なんですか」
「むっ。むう……確かに、これは大変じゃ」
「そもそも、何故こんな光が?」
「うむ、暗いところが照らせたら便利だなと思ったのじゃ。えと、どう止めるんだっけ」
あれこれいじくっていると、鏡の輝きは更に増した。最初は薄暗い天井の一角を明るくするのみだったのに、今では部屋の奥まで照らさんばかりである。
「強くなっていますよ」
「う、うるさい。えっとえっと……あれ?」
ふいに、創司の動きが止まった。嫌な予感が胸に宿るのを自覚しつつ、つとめて奉炎は冷静に尋ねた。
「どうしましたか」
「こ、壊れてもうた」
「………………」
三度目のため息。こうなってしまっては廃棄するよりほかない。このように力を持った物品を砕いて捨てるための部屋に運んで、そこで処理する。そう考えたその時だった。
「うわっ」
光に照らされたおもちゃ達が動き出した。いや、正確には、光に吸い寄せられているのだ。
明らかな緊急事態に、奉炎の思考が加速した。全力で創司に駆け寄り、鏡を奪い、まずは伏せる。それらの行動を取ろうとして、奉炎は舌打ちしそうになった。変化の術の影響か、体の動きが遅い。歯がゆい思いをしている間にも、たった今、最も近くにあった鵺の形をした門番の置物が鏡に吸い込まれていった。その他にも、先ほど投げ捨てられた動物の本も呑まれていく。
「わっ! わっ!」
慌てた創司が、鏡面を右手で覆った。光は閉ざされ、浮かび上がったおもちゃ達は床に落ちたけれど、代わりに創司の手が吸い込まれていく。
「創司様!」
ようやく創司の左手を掴んだ。動き出して、二つか三つ瞬きをするだけの短時間だったけれど、しかしこの時点で創司の体のほとんどが鏡の中だった。奉炎もまた吸い込まれようとしている。抵抗するが、とても敵わない。もはや舌打ちする時間すらない。奉炎はせめてこれだけはと、まだ無事であった左手で無数の印を結んだ。
奉炎の術が発動するのと、体が完全に鏡に飲み込まれるのは、全くの同時だった。
おいなりななお 1の1
天見奈々緒は真っ白だ。
白い肌に白い髪、瞳だけは鮮やかな血の色をしている、いわゆるアルビノの少女だ。
これだけ特異な容姿をしていれば当然、周りから奇異な目で見られる。生まれたばかりの頃、大人達の反応は概ね悲観的なものだったらしい。アルビノというのは、名前のイメージこそ幻想的な美しさを伴っているものの、実際はただの遺伝子異常だ。この異常というのは、大抵の場合は生物として劣っているという意味で使われる。両親は、せっかく生まれた命がすぐに消えてしまうのではないかと心配し、随分と悩んだそうだ。親戚や、他人の中には、気持ち悪いと思う人すらいたらしい。生まれたばかりの奈々緒の体は確かに丈夫ではなかったが、両親の愛情のおかげか、お医者さんの尽力の甲斐があったのか、まっとうに成長することが出来た。
致命的な病気にかかることはなかったとはいえ、奈々緒の真っ白な肌は弱く、それ故に真夏でも半袖にはなれなかった。どれほど注意しても、肌の荒れを防ぐことは出来なかった。眼も太陽光から守るため常にサングラスをしていた。白い髪もばさばさで、みすぼらしかった。
幼稚園と小学校では、ちょっとしたいじめに見舞われることがあった。見た目が明らかに違う奈々緒と積極的に付き合いたいという子供がいなかったのである。もっとも、そうひどいものではなかったので、我慢してやり過ごすことは出来たが、その経験は奈々緒の性格を内気にしてしまった。となると、中学に上がってもいじめが続きそうなものなのだけど、幸いそれは無くなった。むしろはれ物を扱うかのような優しい態度になった。見た目を理由にして邪険に扱うのは恥ずかしいことなのではないかと考えるようになったのだろう。あるいは、奈々緒の苦労が多少は理解できるようになったのかも知れないし、元々、同情する気持ちがあったのかも知れない。教師達の質に恵まれたのもあるだろう。彼女の通った中学には、生徒からもその親からも評判の良い教師が多かった。
そして高校生になった今。
奈々緒は、教室の最前列、廊下側の端っこの席で、ひっそりと本を読んでいた。周りではクラスメイト達が楽しそうにおしゃべりしている。内容はとりとめのないものから、目下最大のイベントである文化祭についての話し合いまで様々だが、奈々緒はその声を遮断するかのように本を机に立てて、一心不乱に文字を追っていた。
それでも声は耳に届く。
「でさ……」
「……なんじゃね?」
「マジかよ」
「へえ〜」
会話の内容は把握しない。もちろんちゃんと聞こうと思えば、聞き取れる。しかし奈々緒はそれをせず、本に没頭していた。好きなシリーズの新刊を読んでいるのだ。少しでも速く続きを読みたいのだ。
奈々緒は文化祭の運営に関わっている生徒の一人だ。当然、仕事はある。しかしそれを差し置いてまで新刊を読む奈々緒は、活字中毒であった。
「そういや昨日さ、兄貴がどっかの酒貰ってきてさ……」
かすかに届いた言葉に、奈々緒の肩がぴくりと動いた。それは教室内ではなく、廊下からの声だった。奈々緒は思わず耳を塞いだ。
(だ、誰よ、こんなところでお酒の話しないでよう)
心の中で呟きつつ、奈々緒はその話し声が遠ざかるのを待った。しかし、声の主達はすぐそこで立ち止まってしまったらしかった。
「一本5千円以上するんだって自慢しててさ……」
「それかなり良いやつじゃね?」
「なんか美味そうだな。飲みてえ」
(お酒は二十歳からなんだよ? 何で飲みたがるのよ)
また心の中で突っ込みをいれて、さっさと自分のクラスに戻れよと念じる。当然、その声は届かないので、彼らはお酒の話を続けていた。
奈々緒のクラスメイトなら、絶対にこんな話をしない。もちろん、お酒に興味がある生徒はいる。いくら年齢制限されているからと言って、高校生の飲酒を止めることは難しいのだ。このクラスにだって、お酒を飲んだことのある人は数人はいることだろう。それが現実。でも、決して奈々緒の前ではお酒の話はしない。それがこのクラスでの暗黙の了解であった。
「やっぱ酒は日本酒だよな」
「そうか? ウイスキーって結構美味いぞ」
「お前ら昼間からそんな話するなよな〜。先生に聞かれたらどうするんだ」
「昨日の朝酒臭かったお前が言うなよ……」
奈々緒は、だんだん我慢が出来なくなってきた。なんだか、側頭部がうずうずする。尾てい骨あたりも、もししっぽが付いていたらふらふら振っていたかも知れないと思われるうずきがあった。
危険な兆候だ。
(は、はやく、はやくどっか行ってよう!)
そう強く念じた時だった。
「じゃあ今日ウチ来る? 兄貴、一杯くらいはやるって言ってたし」
その言葉に奈々緒は立ち上がった。サングラスを外し、眼を細める奈々緒に、クラスメイトが注目する。全員の表情が同じ言葉を表していた。つまりは、うわっ出た、である。
奈々緒はそんな彼らを無視して、廊下に出た。男子生徒が四名ほど固まっておしゃべりしている。その内容はもちろんお酒の話であり、奈々緒はにやりと笑って彼らの輪に入り込んだ。
「その話、手前にも詳しく聞かせてくれないかい?」
途端に、四名の男子が揃って顔を引きつらせた。しまったという顔だ。
奈々緒の姿は先ほどまでの、教室の隅で縮こまっていた時とはまったく違っていた。ただ立っているだけなのに妙な色気がある。無視したくても出来ない不可思議な存在感。彼女の微笑みは、人なつっこいと同時にどこか胡散臭かった。
「おや。手前の側でその話をしたのだから、当然、誘ってくれるのだろうねお前さん達……あいたっ」
突然頭を叩かれた奈々緒が振り返ると、黒髪の美人さんが奈々緒と男子達を睨め上げていた。
「貴方達は何の話をしているのかしら?」
「げっ、生徒会長……」
四人組は引きつった笑みのまま、速やかに自分のクラスに戻っていった。それを見送った奈々緒は、改めて自分の頭を叩いた女子生徒、山瀬葵に向き直った。
「ひどいじゃないかいお前さん」
「ひどいのは貴方の頭よ、天見さん」
「やれやれ、なんて言いぐさかねえ」
大げさに肩をすくめて見せると、葵は再び手を振り上げた。
「えいっ」
「あいたっ」
叩かれた奈々緒は両手で頭を押さえて、葵を恨めしそうに睨んだ。
「なにするのよう」
「……戻ったようね」
「うっ……。い、いつもご迷惑をおかけしてます……」
さっきとはうって変わって気弱な様子に戻った奈々緒を見て、葵はため息をついた。
「まったく、毎度ながら困ったものねえ」
そう言いつつ睨み付けるのは、奈々緒の頭とお尻から飛び出しているもの。
「……とっととそれを仕舞って、教室に戻りなさい」
小声で囁く葵に、奈々緒はこくりと頷いた。
それは、人によっては、見ることが出来るかも知れない。少なくとも、葵には見えている。
中学生の頃とはまったく違う、銀髪と見間違うばかりの艶やかな白髪と、みずみずしい白い肌。思わず見とれてしまうほどに神秘的な雰囲気を持つ少女だが、普段は大人しいのに特定の話題になると性格が変わる、いわゆる変人として広く周知されている。そんな奈々緒には、白い狐の耳と七つのしっぽが生えていた。
そう。今の天見奈々緒は狐憑きだった。
事の始まりは、奈々緒が高校生になる直前のことだった。
あまり外を出歩きたがらない奈々緒には珍しく、散歩をしていた時だ。適当に歩いていると、やがて雑木林に行き当たった。あまり手入れはされていないようだが、それでも人が通れるような道が一本だけあり、立ち入り禁止の看板もなく、その代わりに朽ちそうな鳥居があった。それで中を覗いてみると、奥には寂れた神社があった。それを見て、奈々緒はそう言えばと思い出した。祖母によると、ウチの近所には神社があって、子供の頃に遊んだ覚えがあるらしい。神仏には興味が無く、インドア派の奈々緒にはどうでもいい話だったが、ここが昔祖母の遊んだ場所だと思うと、感慨深いものもある。それで奈々緒は、神社を探索してみることにした。拝殿もぼろぼろで、しかし掃除はされているらしい。賽銭箱の中身は空っぽで、参拝客はおそらくはいないだろう。奈々緒の知識に寄れば、拝殿の裏には本殿があるという。そういえばちゃんと見たことが無いなと思い裏手に回ってみると、確かにあった。それは予想していたより小さくて、こんな所に居て神様は狭苦しくないのだろうかと疑問に思った。そんな本殿の代わりなのか、側には大樹が立っていた。他の樹木と比べて明らかに古くて大きくて、まさにご神木と言うにふさわしい代物だった。本殿はきっと飾りであり、この大樹こそがメインなのだろう。そう考えた奈々緒は、大樹の側に寄り添ってみた。苔むした樹肌は重々しく、長い時を生きた証が刻まれているかのようだ。根っこも大きくて、子供なら椅子代わりにすることも出来るだろう。
「あれ?」
何かが根っこに絡まっているのを見つけた。それは明らかに加工された何かであり、奈々緒は興味を惹かれた。よく見ると、それは狐の形をした石の置物だった。掌にのっかるサイズで、何故かしっぽが七つも付いていた。しっぽは奇妙だったが、全体の形はなかなかに愛らしくて、一目で奈々緒は気に入ってしまった。早速、根っこの中からそれを救出しようとしたが、それは絡まると言うより埋まっているかのようで、取り出すのは困難だった。四苦八苦しているうちに、ある疑念が沸いて出た。つまり、これは誰かが落とした物ではないだろうかと言うことだ。でも落とし物ならば根っこに絡まってはいないだろう。なら、根っこの隙間に隠したのか。しかし押し込んだようには見えず、まるで木が生長する前からそこにあって、長い年月の中で根っこに埋もれてしまったかのように見えた。どうしたものかと悩んだ奈々緒だったが、答えが出なかったので無理矢理引っ張ってみることにした。すると、これまでの苦労は何だったのかと思えるほどに、それは簡単に引っこ抜けた。どんな理屈かは解らない。しかしようやく取り出すことが出来て、奈々緒は満足だった。家に持ち帰り、水で洗うと、それはたちまち白い輝きを取り戻した。その後は家族に見せてみたり、自室の卓上に飾って眺めたりして、一日を終えた。
さて、翌日の朝。
春休みなので惰眠をむさぼることも可能なのだが、それでも早起きを心がけている奈々緒はいつものように起床して、枕元に置いてあるサングラスをかけて、カーテンを開けた。最初の変化は、その時に気がついた。太陽の光が、いつもより眩しく感じなかったのだ。不思議に思い、試しにサングラスをとって外を見ると、目に突き刺さるようなぎらついたまぶしさは感じられなかった。
首をかしげつつも顔を洗うため洗面所に行ったところで、今度は声を出して驚いた。
鏡に映る自分の姿が、明らかにおかしかった。荒れていた肌が綺麗になっていたのだ。それに髪も傷んでいない。鏡に近づき、ほっぺたを触るとそこはなめらかだった。髪に手串を通してみると、一度も引っかかることはなかった。おそるおそるブラシで梳くと、たちまち髪は艶やかさを増していった。
奈々緒は小さく唸った。綺麗になるのは嬉しいが、ほんの一晩でこんなに容姿が変わるはずもない。これは異常な事態だった。いやまて、これはただ単に寝ぼけているだけではないのだろうか、顔を洗えば元に戻っているのではないか。そう思って何度も顔に水をかけたが、やはり変わらない。
信じられない気持ちで鏡とにらめっこしていると、なんだか側頭部がむずむずしだした。と思ったら、ぴょこんと何かが飛びだした。獣の耳だった。
「………………え?」
どう見ても、人の耳ではない。獣耳だ。それが突然頭に生えた。しかも、意識するとぴょこぴょこ動く。
変異はそれだけに収まらなかった。
しっぽである。いつの間にか、綺麗な白いしっぽが生えていた。数えてみると、それは七本あった。
「…………」
幻覚だ。間違いない。おそらく自分は今高熱を出しており、意識がもうろうとしているのだ。頭の配線がおかしくなっているのだ。しっぽが七本なのは、昨日拾った狐の置物の影響だろう。
「おはよう奈々緒。どうしたそんな突っ立って」
父が洗面所にやってきて、いつも通りの態度で挨拶をしてきた。そしていつも通りに顔を洗って、歯を磨きだした。奈々緒の身体の変化にはまったく気に留めていない。これはやはり、おかしいのは自分の目、いや、頭なのだと結論づけた。
それで奈々緒は、足早にリビングへと向かった。朝食を作っていた母に、体の調子が悪いようだと告げると、彼女は心配そうに奈々緒の顔をのぞき込んだ。奈々緒の姿自体には何も思うところはないらしい。
「顔色は……普通に見えるけど、辛いようならすぐ病院連れて行くからね」
「うん。今日はとりあえず、寝てることにする」
「そうしなさい」
それから奈々緒は朝食を取ると、とっとと自室に戻ってベッドに潜り込んだ。掛け布団に包まれるしっぽの感覚はもちろん気のせいだろう。横向きになると、獣耳が枕に潰されてるような感覚も伝わるが、それもまた然り。寝て目が覚めたら元に戻っていると良いなと思いつつ目を閉じたものの、まったく眠れない。元々、二度寝なんてしないのだ。朝起きたらしっかり目を覚まさせて活動する。そんな習慣が身についているので、いざ二度寝しようとしてもなかなか出来なかった。
こうして一時間ほど頑張ったが眠れなかったので、別のことをすることにした。
「耳消えろしっぽ消えろ〜……」
そんなことを呟きながら奈々緒は強く念じ始めた。我ながらおかしな事をしているという自覚はあり、とても気恥ずかしかったのだが、人目もないし、すでに事態は狂っているので今更多少おかしな言動をしても問題はないだろう。
そうして頑張っているうちに、ふと、頭とお尻のあたりの感覚が変わっていることに気がついた。起き上がって鏡を見れば、獣耳が消えていた。しっぽもない。消えてくれたらしい。肌や髪の毛はつやつやなままだったが、まあそのうちこれも戻るだろう。
「奈々緒。お昼だけど大丈夫?」
一階から母の声が届いた。時計を見るとすでにお昼の十二時を迎えようとしている所だった。奈々緒は返事をすると、リビングに足を運んだ。テーブルにはすでにきつねうどんが用意してあった。母は料理が趣味だ。さすがにうどんや油揚げなどは市販の物だが、だし汁は自前の物であるのが、香りだけでも解る。見た目からして美味しそうであり、奈々緒はご機嫌でテーブルに着いた。
「具合はどう?」
「大分よくなってきたみたい」
「そう」
そんな会話をしつつ、美味しいきつねうどんを賞味していると、お尻のあたりに何かの重みを感じた。まるでしっぽが付いているかのようだ。しかもそれは動いているみたい。はたして、振り返るとまたしっぽが生えていた。七本のしっぽはご機嫌よく動いていたが、奈々緒が見た瞬間にびくりとなって、しおしおとしなだれてしまった。まるで自分の感情と直結しているかのようだ。慌てて側頭部に手をやると、そこにはやっぱり耳があった。
「どうしたの?」
「え。いやその……見えないの?」
「なにが」
「……見えないなら良いんだけど」
「?」
おかしな子ねえ、と母は小首をかしげ、奈々緒は笑ってごまかした。
そんなわけで、この日を境に、奈々緒は耳としっぽが生えるようになってしまった。
いや、本当に生えているかどうかは、この時は判断できなかった。なにせこれが見えるのは奈々緒自身だけだったからだ。
念じれば消えてくれるのだけど、ふとした拍子で現れる。やはり頭がおかしくなったのか、それとも超自然的現象が起きているのか。あるいは、何か恐ろしい陰謀に巻き込まれているのか。これから血で血を洗う闘争に巻き込まれたり、魑魅魍魎が大量に現れてハチャメチャ生活に突入したりするのではないだろうかと危惧したこともあったが、そんなことはなかった。まったく意味不明であり、考えてもどうにもならず、相談も出来ないので、奈々緒は現実逃避し続けることにした。
いたって平穏なまま春休みが終わり、入学式がやってくる。新たな状況に進展したのは、その入学式の日のことだった。
これより三年間通うこととなる、央誠高校の並木道は桜が咲き誇っていた。桜の花びらに包まれながら歩く奈々緒は、とてもそわそわしていた。
新しい生活に対する不安と期待ももちろんある。学業に関しては、自信があるからそれほど気にしてはいない。問題は人間関係だ。お世辞にも人付き合いが得意とは言えないが、どうにかして友達が出来たらいいなあと思っている。そのためには自分から話しかける覚悟が必要と感じるけれど、そうする為の勇気がなかなか沸いてこないのが困りものだった。
それとは別に、落ち着かない理由がある。
視線だ。
真っ白な奈々緒の容姿はとても目立つので、注目されるのは仕方がない。新入学生の中で唯一、サングラスをしているので、それで余計に目立つだろう。視線を集めること自体には慣れている奈々緒だが、問題は、その視線に込められたものだ。普段のものと、明らかに違うのだ。今までの、奇異な物を見るような目だけではない。どうにもこそばゆい、好意的と言っても良い目だった。耳を澄ませてみると「あれ銀髪?」とか「あんな白い肌って初めて見た」とか「すごい、きれい」などと聞こえてくる。容姿を褒められたことが無かった奈々緒は、うれしさよりも恥ずかしさが表立ち、穴があったら入りたいほどだった。
体育館で校長先生のありがたいお話を聞いている間も、式が終わって教室に戻ってからも、先生のお話が終わってあとは帰るだけになっても、奈々緒を射す視線は絶えることがなかった。そのくせ、話しかけてくる人はいない。そのそぶりを見せる人はいるけれど、実行までは至らない。どうやら気が引けるらしい。ならば、自分から話しかけていけば良いのだけど、この期に及んでもなお、話しかける勇気が持てなかった。
この状況に至ることでまず解ったのは、肌と髪が綺麗になったのは、自分の妄想でも幻覚でもないと言うことだ。やはり超常現象が我が身に起きているのだと不安になったところで、最も現実的な答えが思い浮かんだ。つまり元から自分の容姿は悪くは無かったのだけど、勝手に醜いと思い込んでいたという答えだ。しかし最近になって、ふと、まともに自分の顔が見られるようになった。ずいぶんと思い上がった考えだが、それだとすべてに納得がいく。
このように、自分を卑下する方向に考えるのが、奈々緒の悪い癖だった。
「天見さん」
さて帰ろうかと思ったその時、今日、初めて話しかけられた。
顔を上げると、見覚えのある顔の女子生徒が傍らに立っていた。山瀬葵。同じ中学校出身だから、顔と名前は知っている。クラスが同じになった事は一度もなかったし、当然、会話したこともなかったが、彼女はとても美人で、いつも堂々と振る舞っていたので、端っこでこぢんまりとしていた奈々緒にも、その名は届いていた。
「えと、なにかな?」
ちょっと慌てながらも、笑顔を繕って応対する。すると葵はこう言った。
「それ。ちょっと取って見せてくれないかしら」
サングラスを取ってみてとの事らしい。
「別に良いけど……」
言われたとおりにしてみると、教室にどよめきが起こった。みんな赤い瞳の人間を見るのは初めてらしく、わざわざ遠くから奈々緒の顔をのぞき込もうとする者までいた。
「なるほどね」
葵は何を納得したのか、表情を変えないままこくりと頷く。何がなるほどなのかと尋ねようとしたその時、彼女は言った。
「貴女。死相が出ているわ」
「えっ!」
あまりにも突拍子のない台詞に、奈々緒は驚いた。
「どうやら呪われているようね。かわいそうに」
「そ、そんな、呪いだなんて……そんな」
呪われるような恨みを買った覚えはなかったが、症状には覚えがある奈々緒は、慌て、恐れおののいた。そんな様子を無表情に眺めながら、葵は続ける。
「でも大丈夫よ。私は巫女だから、お祓いしてあげる。五十万円で」
「ご、ごじゅうまん……!」
高額を要求され、しかし奈々緒は考えこんでしまう。彼女が巫女さんであるのは、聞いたことがある。家が神社で、お手伝いをしているらしい。ではやはり、彼女は本当に呪いの存在を言い当てたということなのか。
おろおろしだした奈々緒に、クラスメイトは和やかな目を向けているが、当人には解らない。
「ねえ。天見さん」
「はっ、はい!」
「あのね」
もったいぶった風に、奈々緒は思わず佇まいを直す。 ゴクリと生唾を飲み込み、次の言葉を待つ。
葵は、たっぷりと溜めてから、口を開いた。
「馬鹿ね、嘘に決まってるじゃないの」
「嘘だったの!」
「ええ。お祓い料は五十万じゃ無くって百万円よ」
「そっちなの? しかも高くなってる!」
思わず立ち上がり突っ込むと、葵は表情を変えずに肩をすくめた。
「あら、案外ノリが良いのね貴女。それはともかく、この後時間あるかしら。付き合ってほしいんだけど」
「時間はあるけど……」
「じゃあ、付いてきなさい」
そう言うなり、葵はきびすを返して歩き出し、奈々緒は慌てて追いかけた。興味深げなクラスメイト達に見送られながら教室を出る。
この校舎を歩くのは、試験の時を含めても数回もないはずなのに、葵は知った顔で迷い無く進む。階段を上り、たどり着いた先は屋上だった。この学校では屋上を開放しており、昼食時によく使われているらしい。安全対策だろう、柵は二重になっていて、しかも高い。乗り越えるのは大変そうだ。今日は新入学生のみの登校だし、入学初日でここに来る一年生はいないらい。二人きりだった。
「さて本題だけど」
振り返りざまにそう言った葵は、恐ろしいほど真剣な顔をしていた。
「貴女、天見奈々緒さんだけど、違うわよね」
「……」
奈々緒はきょとんとした。言っている意味がわからない。小首をかしげ、どういうことなのか尋ねようとして、しかし奈々緒の体は動かなかった。代わりに、側頭部とお尻のあたりがうずうずしたかと思うと、ぴょこんと耳としっぽが飛び出した。
「七つのしっぽって、珍しいわね」
「そうなのかい?」
クスリと笑いつつそう言ってから、奈々緒は二重に驚いた。一つは、葵が耳としっぽを認識したこと。もう一つは、自分の顔と口が勝手に動いたと言うことだ。奈々緒は慌てて、何かしらの動作を取ろうとした。自分でもどう動こうとしたのかは解らない。でも、体は意識とは裏腹に、まったく動かなかった。愕然としている間に、葵は話を続けた。
「私もそれほど生きた訳じゃないんだけど。初めて見たわ、狐憑き」
「ふうむ。まさかこのご時世に、これが見える子がいるとはねえ。おまえさん、べっぴんなだけじゃなく、この手の才能もあるらしい」
またも、口が勝手に動いた。実に軽快なしゃべり口で、どことなく声色が艶っぽい。本当に自分の口から出ている声なのかと疑いたくなる。
「その容姿。ずいぶんと綺麗になってるけど?」
「確かに、髪も肌も良くなってるね。手前の影響だろうかねえ。でも、造形は変わってないよ」
「他の人達には、それが普通だと思ってるようだけど、どういうこと?」
この学校には、奈々緒と同じ中学の生徒も何人が存在している。しかし、彼らは奈々緒の姿を見ても驚きはしなかった。疑問に思っているのは、当人と葵だけだ。それについても、自分の口は快く説明してくれた。
「騒がれるのも何だからね。ちょいと術を使わせて貰ったよ。さすがに久しぶりなんで、お前さんのように力のある子には及ばなかったらしい」
「術ね。本当にあるのね、そういうの」
「その口ぶりだと、手前みたいなのに遭うのは初めてなのかな。まあ、この人の世にはその手の気配が極端に少ないようだしねえ。昔はそうじゃなかったんだけど」
「そう。じゃあ、肝心な質問をするわね。天見さんはどうなってるの」
きっと睨み付ける葵に、奈々緒の口は愉快そうに端をつり上げた。
「心配かい? 記憶に寄れば、お前さんと手前らは顔見知りですらなかったはずだけどね」
「確かにどうこうする義理はないけれど。知らない人でもない」
「見かけによらず、やさしいね。気に入ったよ、お前さん」
「気に入ったというのなら、一つ言うこと聞いて貰おうかしら。とっととその体から出て行きなさい」
「つれないねえ。まあ、そう心配することはないよ。悪さをするつもりもないし、奈々緒もちゃんとここにいる」
今度は右手が動いて、自分の胸を指差した。
「ただ、出て行くのは無理そうだ。なにせ、なんでこうなったかよくわからないからね。気がついたら憑いてたし、一応は出てみようとは思ったんだ。でもどうにも出来なくてねえ。ちなみに、胡麻の煙は効かないよ? こっそり、自分に試したからね」
いつの間にそんなことをしてたのか。これが確かなら、奈々緒の知らない間に体が勝手に活動していたと言うことになる。とんでもない話だ。思い返すしてみると、家族の自分に対する反応が以前と比べて変化しているような、そんな気になってくる。でも、奈々緒が恐ろしく感じたのはそこではなかった。今、自分の口がしゃべった事に対して、まったく否定的に思わなかったことだ。心の底から、お祓いは無理であり、胡麻の煙も実際に試した結果、失敗に終わったのだと確信していることだった。
「白くて名前が同じで、相性が良すぎたんだろうかねえ? ああそうだ。手前も、ななおっていうんだよ。七つのしっぽで、七尾だよ」
「…………」
葵は胡散臭そうにこちらを見やっている。奈々緒も、自分の声が軽妙すぎて、いまいち信頼しきれない雰囲気になっているように思う。
「いやだねお前さん、そんな目で見ないでおくれよ。照れるじゃないか」
「…………」
葵の表情は変わらない。ちょっと気まずくなってきた。葵は綺麗な娘だから、笑っていた方が素敵なのだけど。でも、この表情もこれはこれで魅力的に思うので、悪くないかも知れない。 そんな風に思って、奈々緒は愕然とした。これは本来ならあり得ない思考だった。
「おっと。さすがに奈々緒が困っているね。出てくるのは早すぎたかな?」
「どういうこと」
「奈々緒にも説明するけれど、手前らは今、一心同体、二人で一つというわけさ。つまり奈々緒、お前さんが感じたそれは手前の心というわけだね」
「なっ、なんで、こんな事に!」
その言葉はちゃんと口から出てくれた。
「おや、喋った。ふーむ、そろそろ時間かな。じゃあ、最後に答えておくね。切っ掛けは、あの白い狐の石だよ。それは間違いないから。続きはまた、都合が良いときに。それじゃあね」「じゃあねってそんな」
それっきり、七尾はしゃべらなかった。自分の頭をぽかぽか叩いてみたり、しっぽを引っ張ってみたりしたが、痛いだけだった。そんな奈々緒を、葵はしばらく無表情のまま見学していたけれど、やがてため息をついて、一歩だけ奈々緒に近づいた。
「どうやら元に戻ったようね」
「えう。うんと、そう、だね……」
七尾を呼び出すのは諦めて、奈々緒はこくりと頷いて見せる。
「災難だった、と言っておきましょうか。それと、ありがとうとも。まさか、こんな興味深いことが現実にあるなんて思わなかったけど。これで少しはここの生活も面白くなりそうね」
「……へ?」
今、なんだか場違いなことを言われた気がする。
「私は幸運ね。巫女冥利に尽きるわ」
「冥利って」
葵の表情は変わっていない。そのはずなのに、雰囲気が明るくなったような。よく見れば、瞳が輝いている。楽しいことを見つけた子供そのものの瞳。
「いろいろ調べたいけれど、ゆっくり付き合っていった方がきっと楽しいわね。というわけだから天見さん、明日からよろしくね」
「よろしくって」
先ほどまでは、自分のことを心配してくれているような言動だったのに、今はまったくその気配を感じない。これは一体どういうことなのか。
「それじゃあ、今日はさようなら。明日、遅刻しちゃ駄目よ?」
「さよならって!」
言うだけ言うと、葵はとっとと屋上から去っていってしまった。あとは、奈々緒が一人残されるだけ。
「結局……どういうことなのよう!」
最初から最後まで展開について行けなかった奈々緒は、しっぽを振り回しながら空に叫んだが、虚しくなったので肩を落としながら屋上を後にした。
かくして、奈々緒の高校生活は始まった。
初めのうちは、今度こそファンタジーな展開になって大変な事件に巻き込まれるのかと危惧していたけれど、やっぱりそんなことはなく、比較的安穏な毎日を送ることが出来た。でも時々、狐が表に出てきては奈々緒らしからぬ大胆な言動をしてみせ、周りを混乱に陥れることはあった。狐はお酒が大好きらしく、ひっそり狐が奈々緒の部屋に隠していた酒瓶が母親に発見され、本気で心配されたりした。酒の話題があると必ず出てきて強請ってくるので、クラスでお酒の話題はタブーになってしまった。また、色恋沙汰にも興味津々らしく、クラスメイトが恋話をすると狐が出てきて話に割り込んだ。その時の狐は、クラスメイト達を掌で転がすかのように弄びつつも、案外、適切なアドバイスを送ったりもするので、恋する乙女達には重宝されている。
このように一部問題のある奈々緒だが、クラスメイトの評価は決して悪いものではなかった。控えめでちょっとおどおどしているけれど、温厚で真面目で、おまけにアルビノ故の独特な雰囲気を持つ奈々緒なので、『校内・美少女ランキング』で上位に挙がることもあった。もっとも、狐の胡散臭くも艶っぽい言動のせいで、数ヶ月後には『恋人にしたらいろいろ持って行かれそうな女子』という不名誉をいただくことになってしまったけれど。奈々緒には持って行かれるの意味がまったくわからなかったけれど、この評価は全生徒一致のものらしい。
葵とも、良好な関係を続けることが出来た。最初は狐についていろいろと調べていたけれど、何も解らなかったので、観察に徹することにしたらしい。観察と言っても、遠くから眺めているわけではない。まず彼女はクラス委員長になり、奈々緒を強引に副委員長にしてしまった。奈々緒は抗議したが、ほかに反対するものはいなかった。委員長という面倒な仕事を率先してやってくれるのだから当然と言える。葵は、クラス委員の仕事だけではなく、生徒会の仕事もよく手伝った。もちろん、奈々緒も強制参加だ。そうすることで一緒にいる時間を増やし、観察する機会を得るとのことだったが、これでは観察ではなく、ただの使役であった。これだけだと奈々緒を都合良く使っているようにしか思えない。でも、狐の起こす騒動を収めてくれたり、奈々緒の豹変っぷりについてフォローしてくれるのは、いつだって葵だった。決して無視せず、いつでも奈々緒の味方でいてくれた。だから奈々緒も、文句は言いつつも彼女の仕事をよく手伝った。
葵は美人だけど、いつも無表情か、もしくは冷徹な微笑を浮かべていて、その鋭利な瞳は『彼女にしたら、いけない趣味に目覚めそうな女子』とまで言われるほどだ。クールな印象の強い葵だけど、彼女の口から出るのは意外と冗談話が多い。彼女が真面目な顔でぼけて、奈々緒が懸命にツッコミをいれる様子は『近寄りがたいが端から見るとおもしろい白黒コンビ』と評判だ。
そんな感じで一年が過ぎ、それから更に半年。
生徒会での働きが認められ生徒会長となった葵の、初めての大仕事である文化祭が迫りつつある初秋。
ここへきてようやく、奈々緒と狐、そして葵の、明らかに普通ではない日常が始まろうとしていた。
赤い月に踊って その6
奈々が彼を見つけたのは偶然だった。
存分にウィンドウショッピングを楽しんだ後、そろそろ寮に帰ろうと店を出たその時に、彼の背中を見つけた。
この間まで同じバンドで活動していた同級生。派手な格好をして馬鹿騒ぎをするような男の子だったが、突然、地味とすら言えるようなスタイルになって、バンドを止めてしまった。
聞くところに寄ると、好きな人が出来たらしい。そしてその相手は、騒がしい音楽が嫌いなのだそうだ。彼はけなげにも、そんな彼女の趣味に合わせた格好になったのだ。
奈々はクスリと笑うと、後を追って驚かせてやろうかと考えた。時計を見れば、すでに8時を過ぎていて、さすがにそろそろ戻らねば、みーちゃんや他の寮生に告げた帰宅時間に間に合わなくなるだろう。でも、寮に門限があるわけでも無し、多少遅れても笑い話にしかならないだろうと考えて、奈々は彼を尾行することにした。
彼が向かう先は住宅街だった。
奈々は、20メートルほどの距離を取ってそろそろと進みつつ、顔をしかめた。
まさか、ストーカーになっちゃったのではないだろうか。
すぐ首を振ってその思考を振り払った。
住宅街には、数は少ないが音楽を扱う店が存在しているし、ロビーコンサートを行っている場所もある。未来の音楽家が、住宅街の住人に自分の音楽を披露しているのだ。それを聞きに行くのかもしれない。彼の思い人は、クラシックが好きだそうだから、その勉強なのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、随分と歩いたらしい、商店街からかなり離れてしまった。
そろそろ、声をかけるべきだろう。
足早に彼の背中に近づいていって。
「え?」
我ながら間の抜けた声が出た。
細道から、何かが飛び出してきた。背の高い、おそらく男だと思う。そいつが、彼に飛びかかっていって。
「なんだおまえっ……痛てええええ!」
彼が絶叫した。
「ちょっ、え? えええ!?」
目の前で起こった事が理解できず、奈々はただ立ちつくす。そうしている間に、事は進んでいった。
暴れる彼を男は押さえつける。街灯にてらされて見えた顔は、笑ってはいた。しかしとてもではないが楽しそうではない。笑顔のまま、顔が固まってしまったような印象を受ける。
「えっ……あっ!」
彼の動きが緩慢になるのを見て取って、ようやく奈々は理解した。
食人鬼だ。
紙面を騒がす人殺しが目の前にいる。
一刻も早く逃げて、警察に連絡すべきだった。
それなのに、奈々は何故か前へと進んでいった。肩にかけていたギターケースを手でもって駆け出して。
それは、奈々当人も驚く行動だった。
心の中では、止めろ止めろ逃げろ逃げろと叫び声が響いているのに、頭はそれを拒否して、体に対してあいつをぶっ飛ばせと命令を送っているのだ。
「でえええええええい!!」
勢いのまま、ギターケースを振り抜いた。
「ぐぎゃっ!」
ギターケースは、男の側頭部に撃ち込まれた。奈々の手に、中のギターが砕ける感触が伝わってきて、思わず落としてしまう。食人鬼は短い悲鳴を上げて横転した。しかし痛がる様子はない。不思議そうに、奈々と、アスファルトの上に転がったギターケースを交互に見つめている。
「うへあ……」
食人鬼が笑った。今度こそ、楽しそうに笑っている。
奈々はぞっとした。男の姿を真正面から見て、初めて自分が何に対峙しているかを思い知った。
男は不潔ななりをしている。目に見えて、肌に垢がたまっている。もう何日、同じ格好をしているのだろうか。元は白かっただろうカッターシャツは赤黒い何かに染まり固まっていて、そうでない部分も茶色くなっている。ズボンも靴もボロボロ、2メートルは離れているはずなのに、臭いが鼻についた。
「うっ……」
食人鬼はゆっくり立ち上がり、これから鬼ごっこを行う子供みたいに、両手を広げて見せた。
これから何をする気か、明白だった。
「きゃあああああああ!!」
こうなっては是非もない。奈々はたまらず逃げ出した。
その香りに近づくごとに違和感が強くなっていくことに、黒見は気が付いていた。
空気がおかしい。早くここを離れた方が良いと直感に働きかけるような気配だ。
実際、進むに連れて人通りがどんどん少なくなっている。
裏道に入ると、そこにはもはや人影など一つもなかった。
ふと、あの日のことを思い出した。
あの食人鬼に追われた夜。その時も確か、人を見かけることがなかった。叫び声を上げながら逃げているのに、誰も姿を現さない。あの時、走った道の端には民家もあったはずだ。しかし誰一人顔を出すことはなかった。誰だって厄介ごとには巻き込まれたくないだろうから、悲鳴を無視して家にこもるのは理解できる。でも、警察には一件も連絡が入っていないのだ。黒見の事件に限らず、すべての事件に置いてでもある。それはあまりにもおかしく、この一連の事件の異常性をより高める事となっていた。
とにかく、黒見は誰にも助けられることはなく、それで追いつかれて、おそらくは食べられてしまったのだと思う。
でも、今はこんな姿で、生きて走っているのだから、本当に訳が分からない。
理由はきっと、すぐに解るだろう。
この先にいるはずなのだ。あの食人鬼は。
「……あっ」
強すぎる血の香りに、黒見は立ち止まった。
端に捨てられていた。
それに近寄ってみれば、知らない男性の遺体だった。
もちろん、所々に食いちぎられた後がある。
黒見は驚かなかった。それがあるだろう事は、すでに予想していた。彼が流す大量の血の香りが、黒見に届いていたからだ。
気の毒には思う。しかし今は、もっと重要なものが、彼の側に落ちていた。
ギターケースだ。見覚えがある、彼女のギターケースだった。
死んだ男に一瞬だけ黙祷を捧げ、黒見は細道の奥へ進んだ。
全力で走り抜ける。
不思議と、息は上がらなかった。まったく苦しいとは思わず、際限なく加速できるような気持ちにすらなっている。
さらに走る。
気持ちがはやっているが自覚できた。思っていた以上に早く、あの食人鬼と再開することが出来るのだ。会って話さえ出来れば、元の姿に戻る手がかりを得ることが出来るはずだった。
やがて、それが黒見の耳に届いた。
叫び声だ。聞き覚えのあるその声へ、今でもしっかりと届いている香りに向かって行く。
見えた。
街灯の元にある二人の姿。
ぼろを着た男と、やはりボロボロになっている女性の姿。服は所々破れ、怪我も酷い。特に左腕は少しえぐれているように見える。それでも彼女は、気丈に男を睨み付けている。
「奈々さん!」
「え?」
奈々は目を丸くした。かけられた声に、食人鬼までも動きが止まる。
「ゆうちゃ」
奈々の言葉はそこで途切れた。
黒見が、食人鬼に飛びかかったからだ。
腕に抱きついて、男の体から発せられる据えた臭いに、黒見は一瞬顔をしかめた。あまりにも不潔な肌だったが、それでも黒見は牙を突き立てた。
「がっ……あっ! ああああ!!」
食人鬼は絶叫し、黒見がしがみついている腕をやたらと振り回した。軽い黒見の体が宙に浮くが、それでも牙を放さない。
ちょうど血管を傷つけたのか、文字通り血が噴き出してくる。黒見は振り落とされぬようしっかりと腕を絡ませながら、存分にそれをむさぼった。肌の汚さとは裏腹に、血は美味しいものだった。長年をかけて寝かされて、熟成に至った蒸留酒に似た味わいに、黒見は夢中になった。
「?」
突然、味に異変が起きた。なにか、血とは違うどろりとしたものが口の中に広がった。それはちょうどメープルシロップに似て甘かった。思いっきり吸ってみると、血と一緒にその甘い何かが、口いっぱいに広がっていった。この血ではないなにかは、なんなのだろうか。舌で転がし、注意深く正体を探ろうとするが、やはりわからない。解るのは、とても美味しくて、震えるほどの気持ちよさが味わえると言うことだ。
黒見はふと、これはもっとじっくりと味わうべきではないかと思った。人の血は有限で、きっとこのなにかも有限だ。一気に飲み干すのではなく、ゆっくり啜っていく方が長く楽しめる。
いつの間にか、食人鬼は呆然と立ちつくし、血を啜る黒見の姿を見下ろしていた。
黒見は、自分の足が地面についていることに気が付いて、火照った顔を上げた。
食人鬼と目があった。
「うっ……あ……あああ…………」
彼が浮かべていた表情に、黒見はあっけにとられた。
酷く怯えていたのだ。
「わああああああああああああ!!」
そして彼は逃げた。黒見を突き飛ばし、無様に泣き叫びながら、途中何度もつまずきながら、夜闇に消えていった。
「…………え?」
食人鬼の豹変に黒見は戸惑ったが、追いかけねばならない。彼には聞かねばならないことがある。動きだそうとして、体の反応は鈍かった。全身が震えて、まるで力が出ない。
「は……あ……」
ため息が熱い。まるで酔っぱらってしまったかのような、夢心地。
「ゆうちゃん、だ、大丈夫!?」
声をかけられて、黒見はびくりとした。
奈々が心配そうに顔を寄せてきている。
奈々は、しりもちをついている黒見の肩を抱こうとした。
「あれっ、もうっ。何で動かないのよ!」
もどかしそうに、奈々は叫ぶ。左腕を上げようとして、でもまったく上がっていない。黒見は間近でその傷を見た。浅くだが、えぐれている。噛みちぎられたのだ。出血も激しい。彼女の顔色は、街灯の元でも解るほどに青い。
それで黒見はようやく、血に酔っている場合ではないと気が付いた。彼を追う前にやるべき事に気が付いた。
早く彼女の手当をしないといけない。でも治療するための道具はない。せめて、腕を縛って出血を止めないと。
黒見は、自分の服を裂いて包帯代わりにしようと考えた。すぐに、それは無理だと気が付く。自身を見下ろして、それでようやく、胸元が血まみれであることに気が付いた。あの食人鬼の血だ。
黒見は焦りながら、当たりを見渡す。すると、幸運なことに、その人と目があった。
通りすがりの女性。近所に住むおばさんなのか。明らかに部屋着で、手にはコンビニの袋をぶら下げている。彼女は此方を見ていた。街灯にてらされた、血にまみれた黒見と奈々の姿を。
「ゃあああああああああああ!」
おばさんが絶叫し、その声につられたのか、幾人かが窓から顔を出した。
いつの間にか、あの人を拒むかのような空気は消え失せていて、人の気配が戻っていた。
黒見は立ち上がった。足腰に力が入らず膝が震えていたが、それでも強引に歩き出し、立ちつくしているおばさんに近づいていく。
「救急車」
「……?」
「救急車を呼べ! 早く!」
「ひっ!?」
おばさんは、あわただしくポケットから携帯電話を取り出して、連絡を始めた。
それを確認してから、黒見は落ちていた袋を拾い上げ、中身をすべてこぼすと、ひねってひも状にした。そして、しゃがみ込んでいた奈々に駆け寄って、二の腕をきつく縛り上げた。
「ちょっときついよゆうちゃん」
「救急車が来るまでの我慢です。それじゃあ」
「あ、あれ? 何処行くのよ!」
走り出そうとする黒見の背中に、奈々が呼びかける。
「ちょっと、あいつに聞きたいことがあるんです」
「え?」
一瞬、何を言われたのか解らなかったのか、奈々はきょとんとしたが、すぐに慌てて黒見を止めようと手を伸ばした。しかし、その場から動くことは出来ない。体が限界に近づいているのだ。
「ユーイチのこと!? 駄目だって! あいつは警察にお願いしておけばいいよ! って、こら、待ちなさい!」
それですむのならばと黒見は思う。でも生憎、これは警察に任せることは出来ないことなのだ。
「ごめんなさい!」
黒見はせめて、一瞬だけ振り返って頭を下げると、食人鬼が逃げていった方へと駆けていった。
そいつは、町はずれの袋小路にしゃがみ込んでいた。
深くうなだれるその姿は、惨めさしか感じられない。ひょっとしたら人違いのホームレスなのではないだろうかと思ってしまうほどに、あの食人鬼としての姿とかけ離れていた。それでも、服装は間違いないし、何より黒見の牙の後がしっかりと彼の腕に残っていた。
近寄ると、彼はのろのろと顔を上げた。
「あっ……」
彼の口から声が漏れる。
「その、目……目の色!」
驚愕に目を見開き、次の瞬間、黒見の足にしがみついてきた。
「も、戻してくれ! 頼む!」
「え?」
黒見は唖然とした。こいつは突然、一体何を言っているのか。
「認める! 俺が悪かった! もう詮索はしないから! だから、頼む! 後生だから、頼むよう……!」
そう泣きわめく男の顔は、弱者以外の何者でもなかった。
黒見はもう、訳が分からなかった。戻してほしいのは自分の方だ。それなのに、何故こんな事を懇願されなければならないのか。
「お前……なに言ってるんだよ……」
「頼む……戻して……俺を返してくれよ……」
「だから、お前は、何を言ってるんだ……」
黒見は叫んだつもりだった。戸惑いを怒りに変えて、この男にぶつけたつもりだった。しかし口から出た言葉は弱く震えていた。
言葉だけではない。体が震えるのを感じる。
この姿になってから今までの幾日かの間だを無事に過ごすことが出来たのは、この男に会いさえすれば元に戻れると信じたからこそだった。心配せずとも、元の姿に戻る為の道はあると考えたからこそ、少女の姿になるという異常事態に対して冷静に対処することが出来た。
それなのに。
その頼りの男は、自分に対して元に戻せと哀願している。
勘弁してくれと、本気で思った。
今まで必死になって目をそらし、押さえ込んでいた恐怖が、今まさに、いっぺんにあふれ出そうとしているのが解る。
空を見ると相変わらず赤い月がそこにあった。
月光が目にしみて、まず遠くなったのは男の泣く声だった。
その後に、意識が遠のいていくのを感じた。
これが絶望なのかなと呆然と思うその心までもが、どこかへ遠のいて行く。
「ぐが……あっ」
突然、苦悶の声が耳に届いた。
男の声だ。一体どうしたのか。働きの鈍い意識を彼に向けると、その男の顔がすぐ目の前にあった。理由は、黒見の手にあった。知らない間に、手が彼の首を握っていたのだ。
「……うるさい」
口が勝手に動いた。
「ぐっ……ぐぅ……う……」
「うるさいと言っているでしょう……」
今度はため息。
「……せっかくの美味しい狂気が……もう見る影もないのね……はあ……」
何を言っているのだろう。
自分は、一体、何を言っているのだろう。
「まあいいです……せめて貴方の血と、そう……その小さな自尊心を頂いていきますね……」
体は動く。黒見の意志に反して、男に食らいつく。
「うっ……! ぐうぅ!」
男の呻く声と、相変わらず美味しい血の味。それも、どんどん小さくなっていって。
とうとう黒見の意識は闇に飲まれて消えてしまった。
存分にウィンドウショッピングを楽しんだ後、そろそろ寮に帰ろうと店を出たその時に、彼の背中を見つけた。
この間まで同じバンドで活動していた同級生。派手な格好をして馬鹿騒ぎをするような男の子だったが、突然、地味とすら言えるようなスタイルになって、バンドを止めてしまった。
聞くところに寄ると、好きな人が出来たらしい。そしてその相手は、騒がしい音楽が嫌いなのだそうだ。彼はけなげにも、そんな彼女の趣味に合わせた格好になったのだ。
奈々はクスリと笑うと、後を追って驚かせてやろうかと考えた。時計を見れば、すでに8時を過ぎていて、さすがにそろそろ戻らねば、みーちゃんや他の寮生に告げた帰宅時間に間に合わなくなるだろう。でも、寮に門限があるわけでも無し、多少遅れても笑い話にしかならないだろうと考えて、奈々は彼を尾行することにした。
彼が向かう先は住宅街だった。
奈々は、20メートルほどの距離を取ってそろそろと進みつつ、顔をしかめた。
まさか、ストーカーになっちゃったのではないだろうか。
すぐ首を振ってその思考を振り払った。
住宅街には、数は少ないが音楽を扱う店が存在しているし、ロビーコンサートを行っている場所もある。未来の音楽家が、住宅街の住人に自分の音楽を披露しているのだ。それを聞きに行くのかもしれない。彼の思い人は、クラシックが好きだそうだから、その勉強なのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、随分と歩いたらしい、商店街からかなり離れてしまった。
そろそろ、声をかけるべきだろう。
足早に彼の背中に近づいていって。
「え?」
我ながら間の抜けた声が出た。
細道から、何かが飛び出してきた。背の高い、おそらく男だと思う。そいつが、彼に飛びかかっていって。
「なんだおまえっ……痛てええええ!」
彼が絶叫した。
「ちょっ、え? えええ!?」
目の前で起こった事が理解できず、奈々はただ立ちつくす。そうしている間に、事は進んでいった。
暴れる彼を男は押さえつける。街灯にてらされて見えた顔は、笑ってはいた。しかしとてもではないが楽しそうではない。笑顔のまま、顔が固まってしまったような印象を受ける。
「えっ……あっ!」
彼の動きが緩慢になるのを見て取って、ようやく奈々は理解した。
食人鬼だ。
紙面を騒がす人殺しが目の前にいる。
一刻も早く逃げて、警察に連絡すべきだった。
それなのに、奈々は何故か前へと進んでいった。肩にかけていたギターケースを手でもって駆け出して。
それは、奈々当人も驚く行動だった。
心の中では、止めろ止めろ逃げろ逃げろと叫び声が響いているのに、頭はそれを拒否して、体に対してあいつをぶっ飛ばせと命令を送っているのだ。
「でえええええええい!!」
勢いのまま、ギターケースを振り抜いた。
「ぐぎゃっ!」
ギターケースは、男の側頭部に撃ち込まれた。奈々の手に、中のギターが砕ける感触が伝わってきて、思わず落としてしまう。食人鬼は短い悲鳴を上げて横転した。しかし痛がる様子はない。不思議そうに、奈々と、アスファルトの上に転がったギターケースを交互に見つめている。
「うへあ……」
食人鬼が笑った。今度こそ、楽しそうに笑っている。
奈々はぞっとした。男の姿を真正面から見て、初めて自分が何に対峙しているかを思い知った。
男は不潔ななりをしている。目に見えて、肌に垢がたまっている。もう何日、同じ格好をしているのだろうか。元は白かっただろうカッターシャツは赤黒い何かに染まり固まっていて、そうでない部分も茶色くなっている。ズボンも靴もボロボロ、2メートルは離れているはずなのに、臭いが鼻についた。
「うっ……」
食人鬼はゆっくり立ち上がり、これから鬼ごっこを行う子供みたいに、両手を広げて見せた。
これから何をする気か、明白だった。
「きゃあああああああ!!」
こうなっては是非もない。奈々はたまらず逃げ出した。
その香りに近づくごとに違和感が強くなっていくことに、黒見は気が付いていた。
空気がおかしい。早くここを離れた方が良いと直感に働きかけるような気配だ。
実際、進むに連れて人通りがどんどん少なくなっている。
裏道に入ると、そこにはもはや人影など一つもなかった。
ふと、あの日のことを思い出した。
あの食人鬼に追われた夜。その時も確か、人を見かけることがなかった。叫び声を上げながら逃げているのに、誰も姿を現さない。あの時、走った道の端には民家もあったはずだ。しかし誰一人顔を出すことはなかった。誰だって厄介ごとには巻き込まれたくないだろうから、悲鳴を無視して家にこもるのは理解できる。でも、警察には一件も連絡が入っていないのだ。黒見の事件に限らず、すべての事件に置いてでもある。それはあまりにもおかしく、この一連の事件の異常性をより高める事となっていた。
とにかく、黒見は誰にも助けられることはなく、それで追いつかれて、おそらくは食べられてしまったのだと思う。
でも、今はこんな姿で、生きて走っているのだから、本当に訳が分からない。
理由はきっと、すぐに解るだろう。
この先にいるはずなのだ。あの食人鬼は。
「……あっ」
強すぎる血の香りに、黒見は立ち止まった。
端に捨てられていた。
それに近寄ってみれば、知らない男性の遺体だった。
もちろん、所々に食いちぎられた後がある。
黒見は驚かなかった。それがあるだろう事は、すでに予想していた。彼が流す大量の血の香りが、黒見に届いていたからだ。
気の毒には思う。しかし今は、もっと重要なものが、彼の側に落ちていた。
ギターケースだ。見覚えがある、彼女のギターケースだった。
死んだ男に一瞬だけ黙祷を捧げ、黒見は細道の奥へ進んだ。
全力で走り抜ける。
不思議と、息は上がらなかった。まったく苦しいとは思わず、際限なく加速できるような気持ちにすらなっている。
さらに走る。
気持ちがはやっているが自覚できた。思っていた以上に早く、あの食人鬼と再開することが出来るのだ。会って話さえ出来れば、元の姿に戻る手がかりを得ることが出来るはずだった。
やがて、それが黒見の耳に届いた。
叫び声だ。聞き覚えのあるその声へ、今でもしっかりと届いている香りに向かって行く。
見えた。
街灯の元にある二人の姿。
ぼろを着た男と、やはりボロボロになっている女性の姿。服は所々破れ、怪我も酷い。特に左腕は少しえぐれているように見える。それでも彼女は、気丈に男を睨み付けている。
「奈々さん!」
「え?」
奈々は目を丸くした。かけられた声に、食人鬼までも動きが止まる。
「ゆうちゃ」
奈々の言葉はそこで途切れた。
黒見が、食人鬼に飛びかかったからだ。
腕に抱きついて、男の体から発せられる据えた臭いに、黒見は一瞬顔をしかめた。あまりにも不潔な肌だったが、それでも黒見は牙を突き立てた。
「がっ……あっ! ああああ!!」
食人鬼は絶叫し、黒見がしがみついている腕をやたらと振り回した。軽い黒見の体が宙に浮くが、それでも牙を放さない。
ちょうど血管を傷つけたのか、文字通り血が噴き出してくる。黒見は振り落とされぬようしっかりと腕を絡ませながら、存分にそれをむさぼった。肌の汚さとは裏腹に、血は美味しいものだった。長年をかけて寝かされて、熟成に至った蒸留酒に似た味わいに、黒見は夢中になった。
「?」
突然、味に異変が起きた。なにか、血とは違うどろりとしたものが口の中に広がった。それはちょうどメープルシロップに似て甘かった。思いっきり吸ってみると、血と一緒にその甘い何かが、口いっぱいに広がっていった。この血ではないなにかは、なんなのだろうか。舌で転がし、注意深く正体を探ろうとするが、やはりわからない。解るのは、とても美味しくて、震えるほどの気持ちよさが味わえると言うことだ。
黒見はふと、これはもっとじっくりと味わうべきではないかと思った。人の血は有限で、きっとこのなにかも有限だ。一気に飲み干すのではなく、ゆっくり啜っていく方が長く楽しめる。
いつの間にか、食人鬼は呆然と立ちつくし、血を啜る黒見の姿を見下ろしていた。
黒見は、自分の足が地面についていることに気が付いて、火照った顔を上げた。
食人鬼と目があった。
「うっ……あ……あああ…………」
彼が浮かべていた表情に、黒見はあっけにとられた。
酷く怯えていたのだ。
「わああああああああああああ!!」
そして彼は逃げた。黒見を突き飛ばし、無様に泣き叫びながら、途中何度もつまずきながら、夜闇に消えていった。
「…………え?」
食人鬼の豹変に黒見は戸惑ったが、追いかけねばならない。彼には聞かねばならないことがある。動きだそうとして、体の反応は鈍かった。全身が震えて、まるで力が出ない。
「は……あ……」
ため息が熱い。まるで酔っぱらってしまったかのような、夢心地。
「ゆうちゃん、だ、大丈夫!?」
声をかけられて、黒見はびくりとした。
奈々が心配そうに顔を寄せてきている。
奈々は、しりもちをついている黒見の肩を抱こうとした。
「あれっ、もうっ。何で動かないのよ!」
もどかしそうに、奈々は叫ぶ。左腕を上げようとして、でもまったく上がっていない。黒見は間近でその傷を見た。浅くだが、えぐれている。噛みちぎられたのだ。出血も激しい。彼女の顔色は、街灯の元でも解るほどに青い。
それで黒見はようやく、血に酔っている場合ではないと気が付いた。彼を追う前にやるべき事に気が付いた。
早く彼女の手当をしないといけない。でも治療するための道具はない。せめて、腕を縛って出血を止めないと。
黒見は、自分の服を裂いて包帯代わりにしようと考えた。すぐに、それは無理だと気が付く。自身を見下ろして、それでようやく、胸元が血まみれであることに気が付いた。あの食人鬼の血だ。
黒見は焦りながら、当たりを見渡す。すると、幸運なことに、その人と目があった。
通りすがりの女性。近所に住むおばさんなのか。明らかに部屋着で、手にはコンビニの袋をぶら下げている。彼女は此方を見ていた。街灯にてらされた、血にまみれた黒見と奈々の姿を。
「ゃあああああああああああ!」
おばさんが絶叫し、その声につられたのか、幾人かが窓から顔を出した。
いつの間にか、あの人を拒むかのような空気は消え失せていて、人の気配が戻っていた。
黒見は立ち上がった。足腰に力が入らず膝が震えていたが、それでも強引に歩き出し、立ちつくしているおばさんに近づいていく。
「救急車」
「……?」
「救急車を呼べ! 早く!」
「ひっ!?」
おばさんは、あわただしくポケットから携帯電話を取り出して、連絡を始めた。
それを確認してから、黒見は落ちていた袋を拾い上げ、中身をすべてこぼすと、ひねってひも状にした。そして、しゃがみ込んでいた奈々に駆け寄って、二の腕をきつく縛り上げた。
「ちょっときついよゆうちゃん」
「救急車が来るまでの我慢です。それじゃあ」
「あ、あれ? 何処行くのよ!」
走り出そうとする黒見の背中に、奈々が呼びかける。
「ちょっと、あいつに聞きたいことがあるんです」
「え?」
一瞬、何を言われたのか解らなかったのか、奈々はきょとんとしたが、すぐに慌てて黒見を止めようと手を伸ばした。しかし、その場から動くことは出来ない。体が限界に近づいているのだ。
「ユーイチのこと!? 駄目だって! あいつは警察にお願いしておけばいいよ! って、こら、待ちなさい!」
それですむのならばと黒見は思う。でも生憎、これは警察に任せることは出来ないことなのだ。
「ごめんなさい!」
黒見はせめて、一瞬だけ振り返って頭を下げると、食人鬼が逃げていった方へと駆けていった。
そいつは、町はずれの袋小路にしゃがみ込んでいた。
深くうなだれるその姿は、惨めさしか感じられない。ひょっとしたら人違いのホームレスなのではないだろうかと思ってしまうほどに、あの食人鬼としての姿とかけ離れていた。それでも、服装は間違いないし、何より黒見の牙の後がしっかりと彼の腕に残っていた。
近寄ると、彼はのろのろと顔を上げた。
「あっ……」
彼の口から声が漏れる。
「その、目……目の色!」
驚愕に目を見開き、次の瞬間、黒見の足にしがみついてきた。
「も、戻してくれ! 頼む!」
「え?」
黒見は唖然とした。こいつは突然、一体何を言っているのか。
「認める! 俺が悪かった! もう詮索はしないから! だから、頼む! 後生だから、頼むよう……!」
そう泣きわめく男の顔は、弱者以外の何者でもなかった。
黒見はもう、訳が分からなかった。戻してほしいのは自分の方だ。それなのに、何故こんな事を懇願されなければならないのか。
「お前……なに言ってるんだよ……」
「頼む……戻して……俺を返してくれよ……」
「だから、お前は、何を言ってるんだ……」
黒見は叫んだつもりだった。戸惑いを怒りに変えて、この男にぶつけたつもりだった。しかし口から出た言葉は弱く震えていた。
言葉だけではない。体が震えるのを感じる。
この姿になってから今までの幾日かの間だを無事に過ごすことが出来たのは、この男に会いさえすれば元に戻れると信じたからこそだった。心配せずとも、元の姿に戻る為の道はあると考えたからこそ、少女の姿になるという異常事態に対して冷静に対処することが出来た。
それなのに。
その頼りの男は、自分に対して元に戻せと哀願している。
勘弁してくれと、本気で思った。
今まで必死になって目をそらし、押さえ込んでいた恐怖が、今まさに、いっぺんにあふれ出そうとしているのが解る。
空を見ると相変わらず赤い月がそこにあった。
月光が目にしみて、まず遠くなったのは男の泣く声だった。
その後に、意識が遠のいていくのを感じた。
これが絶望なのかなと呆然と思うその心までもが、どこかへ遠のいて行く。
「ぐが……あっ」
突然、苦悶の声が耳に届いた。
男の声だ。一体どうしたのか。働きの鈍い意識を彼に向けると、その男の顔がすぐ目の前にあった。理由は、黒見の手にあった。知らない間に、手が彼の首を握っていたのだ。
「……うるさい」
口が勝手に動いた。
「ぐっ……ぐぅ……う……」
「うるさいと言っているでしょう……」
今度はため息。
「……せっかくの美味しい狂気が……もう見る影もないのね……はあ……」
何を言っているのだろう。
自分は、一体、何を言っているのだろう。
「まあいいです……せめて貴方の血と、そう……その小さな自尊心を頂いていきますね……」
体は動く。黒見の意志に反して、男に食らいつく。
「うっ……! ぐうぅ!」
男の呻く声と、相変わらず美味しい血の味。それも、どんどん小さくなっていって。
とうとう黒見の意識は闇に飲まれて消えてしまった。
赤い月に踊って その5
その後、黒見は奈々の代わりにバンドの練習に参加することになった。渡された数点の楽譜はもちろんオリジナルのもので、すべて剛が作曲したらしい。曲調が似通ってはいるものの、才能を感じさせる譜面だった。
一曲弾いては、剛が演奏の注文をつけて、黒見はそれに応える。みんなで音楽をやっているという実感に、ますます昔を思い出してしまい、思わず自分の意見をぶつけようとしてしまったが、それはなんとかこらえた。あくまで、ゲストとして練習に参加しているからだ。もっとも、彼らに率直な意見を述べたところで、喜びこそすれ疎ましく思われることはないだろうが。
ちょっと勿体ないかな、と黒見は思う。このバンドはきっと、プロになってもやっていけるのだろうに。それだけの腕を持ったメンバーが集っている。しかし、そんな考えはだんだん変化していった。
彼らは楽しそうに演奏をしている。しかしその表情はプロとは違う。
プロとて演奏を楽しんでいることには代わりはない。でも、その肩に背負わされる重荷が、プロとアマを明確に区分しているのだ。重荷を背負えるか否かは、音楽の才能とはまた別の力にかかっている。彼らはきっと、その重荷を背負ってしまったら音楽を続けることが出来なくなるだろう。気楽な場所だからこそ羽ばたける人種なのだろうと、黒見は考え直した。
ただし、その考えに根拠はない。ただの感にすぎない。
自分もいい加減なものだなと、黒見はその時かすかに苦笑したものだった。
今は、練習が終わって帰宅の途中だ。スタジオと住処の雑貨ビルはそこそこ離れているものの歩いて通える距離なので、黒見は公共交通機関は使用せず、奈々と並んで歩道をゆっくり歩いていた。
「ほんと、入ってくれればいいのに」
奈々はしきりにそう言っては嘆いている。もう10回は同じ事を言っただろう。
「でも、仕事がありますし」
黒見もまた、同じ事を10回は繰り返している。
「勿体ないよ、あんだけ弾けるのに。うちで活用しようよ」
「あまり目立つのは」
遠慮がちに拒否する黒見。なにせこの姿はあくまでも仮の姿。いずれは元の男の姿に戻るつもりだ。その時になって誘われたなら乗るかもしれないが、今はひっそりと生きていたい。
「もう。そんだけ可愛い時点で、十分目立ってるじゃない」
「…………」
聞こえないふりをした。確かに、道行く人の視線が気になるが、それは奈々の背負っているギターケースを見ているのだと無理矢理思っている。
「でもほんと上手だよ。さすが、お兄さんゆずりなのかな? 演奏もよく似てるし……、あ、でもゆうちゃんのほうが柔らかい感じがするかな」
「え?」
これは聞こえないふりは出来なかった。
「えっと、なんで……お、兄のことを?」
「なんでって、ゆうちゃんのお兄さんってユーイチでしょ? あの」
奈々は当たり前のようにそんなことを言ってきた。
「そうですけど、知ってるんですか?」
「もちろん。私、あのバンドの中では一番好きだったから。まあ、全然目立ってなかったけどね」
「ぐう」
黒見はへこんだ。確かに、黒見はバンドメンバーの中では一番人気がなかった。目立ってなかったというのはまさしくその通りで、派手で格好いいメンバーの片隅でキーボードを弾いていたのだ。
「でもさ、あのバンドがやってこれたのはユーイチの演奏のおかげでしょ。なんか縁の下の力持ちって感じでさ。もしかしたらゆうちゃんは知らないかもしれないけど、そう言った意味では一番評価が高かったんだよ。実力派だったしね」
「そ、そうかな」
褒められて、黒見は一転、気分が良くなった。
「だから、バンドが解散したのはちょっと悲しかった。自分でも意外なくらい引きずってて、当時は結構、鬱入ってた。よほど好きだったんだねえ」
「そう、なんですか」
平然と相づちを打ったつもりだったが、弾む声を抑えることは出来なかった。ファンレターなどを貰ったことも無かっただけに、この言葉はとても嬉しい。
「で、1年後くらいかな、町でさ、偶然ユーイチが引っ越しの手伝いしてるところを見てさ。今何やってるのかなあって気になって……。でも、それをわざわざ調べるのってなんかキモイかなって悩んでたら……」
「悩んでたら?」
「馴染みの雑貨屋で働いてるところ、見ちゃってさ。もう、すぐ、佐恵子さんに尋ねたわよ。あの人どうしたのって」
「へえ……。でも、それじゃあなんで話しかけてくれなかったのかなあ」
それだけファンでいてくれたのに、黒見は彼女と話をした記憶がなかった。だからそう口にしてしまったのだが、すぐにやばいと気が付いた。案の定、奈々は不思議そうな顔をしている。
「あ、ええと、兄はずっと女縁がないって嘆いていたので……」
そうフォローしてみると、奈々は納得顔になってくれた。
「話しかけたいとは思ったよ。でも、だって、恥ずかしいじゃない……迷惑がられたら悲しいしさ」
朱がさす頬に両手の平を当てて、奈々は呟いた。その様子は可愛らしく、黒見はそんな事なら自分から話しかけるべきだったなと、悔しく思った。
「で、つい先日よ。店に見知らぬ子がいるじゃない。名前を聞いてびっくりしたわ。黒見なんて名字滅多にないし、雰囲気が似てるからすぐ血縁者だって解った。それでその……」
ここで奈々は申し訳なさそうに眉を八の字にした。
「ごめんなさい。この子に近づけば、ユーイチにも近づけるって思ったの」
「はあ……」
そこまで想ってくれてありがとうと言いたいところだったが、一応従妹ということになっているので、感謝するのはおかしいだろう。かといって拒否するような返事も返すことは出来ないので、結局、曖昧に頷くしかなかった。
「でもそんな打算も、ニュース見たら吹っ飛んじゃった」
今度は辛そうに顔を伏せて、まだ新しいアスファルトの道路を見つめた。
「だって、あのユーイチが、お、襲われたって言うじゃない? もうパニックでどうかなりそうだった。で、そんななかで思ったのが貴女の事よ」
「わ、私ですか」
同情するような、あるいはすがるような目を向けられて、黒見はたじろいだ。
「うん。貴女、きっとユーイチのこと、知ってたんでしょ? 私に会う前から」
「ええ、まあ……」
ここは嘘を付くような場面では無かったので、こくりと頷いてみせた。
「気になってはいたのよ。なんか、なんていうのかな、こう……苦悩してる感じがしたのよ。普通に座ってるだけに見えるんだけど、なんか命題を抱えてるって感じ。そんな空気。わかるかなあ?」
奈々は、自分が感じたものをうまく言葉で表すことが出来ないでいた。それでも解る。彼女は、感受性が豊からしい。黒見が抱えているものの一端を、僅かな時間にかいま見たのだ。
「……なるほど。なんでこんなに親切にしてくれるのかなって思ってましたけど、理由が分かりました」
「……幻滅しちゃった?」
ため息と共に言葉を漏らすと、奈々はおそるおそると言った感じに上目遣いに尋ねてきた。もちろん、黒見は首を横に振った。
「いえ。正直に言うと……嬉しいです。お……兄のファンがいてくれたこともそうですし、私の心配してくれるのも」
「そう……」
奈々は、心底ほっとしたように目を細めた。
「よかった。ありがとうゆうちゃん」
「どういたしましてです。…………むぐっ」
こんな時にそう返すのはおかしいかなと思ったが、そうでもなかったらしい。思いっきり抱きつかれてしまった。
「もうっ、可愛いな! ゆうちゃんは!」
「むごむぐ……」
「ついでに、うちのバンドに入ってくれると嬉しいけど」
「ぶはっ、それは遠慮します」
「もうー。いけず」
そう言う奈々は、もうすっかり普段通りで、先ほどのすまなさそうな色は欠片も残っていなかった。
戻ってみると、雑貨屋はそれほど忙しくはなかったようだ。佐恵子は出かける前と同じように、カウンターに座って雑誌を読んでいた。
客の入りもぱったりと途絶えてしまったので、早めに店じまいをした。
夕飯は、例によって佐恵子の家で、黒見が作った。もはやこれが決まり事になってしまったようだ。
佐恵子は、黒見が作ったチャーハンを口にかき込みながら、貴女は将来良いお嫁さんになれるわと太鼓判を押してくれたが、男としてはあまり嬉しくない評価だ。でも、このまま元に戻れなかったとしたら、本当に誰かのお嫁さんになりかねない。心は男ではあるものの、ある日突然、体が女性化したように心まで女性化してしまうかもしれないのだ。
「はあ……」
黒見はため息をついた。そのままふさぎ込んでしまいそうになったが、それを堪えて別の事へと意識を向けることにする。
とはいえテレビを見たりラジオを聞いたりする気分にもなれない。早く寝てしまった方が良いかもしれない。そう考えた黒見は、シャワーを浴びて、佐恵子に渡されたワンピース型の寝間着を身に纏って、そしてベットに入った。こんな時くらいは男物で通したかったが、佐恵子がそれを許さなかった。当然、文句を言ったが、口達者な佐恵子には敵わない。何時の間にやら丸め込まれてしまっていた。まったく、女性というのは恐ろしい。
一時間ほどぼーっとしていたが、眠気は訪れない。
仕方がないので起きあがり、ずっと出しっぱなしにしていて軽く埃をかぶっていたキーボードを掃除してやることにした。
本当に、これは古い相棒だった。すでに壊れて久しく、とっくに廃棄されているべき代物だったが、どうにも愛着がありすぎて捨てられない。両親からの、最後の誕生日プレゼントだったという事もある。可能ならば修理に出したいところだが、生憎そのための資金が不足していた。
ある程度綺麗になったところで、電源を入れた。音量は最低限に設定して、今日覚えたばかりの曲を弾いてみる。
途中、鳴らない音があるのは解っていた。だから、そこは気にせずに演奏を続けていく。目を瞑って、繰り返し演奏していると、この体に対して抱いていた不安が少しずつ薄れていった。
「?」
ふと、目を開く。時計の針は随分と進んでいて、そろそろ深夜にさしかかろうとしていたが、それは今はどうでも良い。
なにか、匂いがした。
不快なものではなく、むしろ心躍るような良い香り。ちょうど、カフェの前を通りかかった時に鼻に届くコーヒーの香りを感じたような、和む香りだ。
外からだろうか。
黒見は窓を開けてみた。見慣れた景色を改めて見渡しても、変わったところは何もない。なにげなく、空を見上げてみると、ビルの明かりに負けないほど強く輝く月があった。
「え?」
おもわず、声を漏らした。
月が赤い。それも、初めて見る赤だ。今まで、オレンジに近い朱色の月ならば見たことがあった。月の端が赤く染まっているものならば、数度だけだが見た覚えがある。しかし、今の月は赤だった。すべてが赤く染まった満月だった。
「あれ……」
また声が零れた。
胸が躍るのだ。
心臓が強く動いている。軽く汗ばんでいることも解る。しれず、熱いため息が漏れた。何かに対する期待感が溢れてくるのだが、その対象がなんであるのかは解らない。
鼻に届く香りは強くなっていた。それは無数の異なる香りが入り交じったもので、それなのに一つ一つをかぎ分けることすら出来た。
正直、訳が分からなかった。
興奮剤でも盛られたのかと思うくらい、不自然に気分が高揚している。
その時、電話が鳴った。
「ひゃっ!」
音に驚き、しりもちをついてしまった。這いながら電話機に近づいて、受話器を取る。
「……はい」
『こんばんは、ゆうちゃん?』
「え、あ。はい。そうですけど。みーちゃんですか?」
電話の主を確認して、ほっとする。彼女とは、スタジオを出る間際に電話番号の交換を行っていた。事務所の電話番号を教えたのは、携帯電話が手元になかったからだ。もちろん、仕事の都合もあって持ってはいたが、食人鬼の騒動によって、証拠品として警察が持っていってしまったのだ。
『うん。夜分にごめんね。あのね、奈々さん、知らないかな?』
「奈々さんなら、夕方別れてそれでおしまいでしたけど」
『そっか……。もしかしたら一緒かなって思ったんだけど』
「なにかあったんですか?」
みーちゃんの声に不安なものを感じて、黒見は尋ねた。
『あ、う〜ん。いや、何かあった訳じゃないと思うんだけど。寮に帰ってこないんだよね』
「寮住まいなんですか」
『うん。私と一緒の寮に住んでるんだよ。それでね、別に寮に門限がある訳じゃないけど、約束した時間に戻ってこないのよね』
明るい口調の中に、心配する気配がありありと感じ取れて、黒見は彼女を探しに行こうかとすら思ってしまった。
「それは心配ですね……」
外を見て、道路に彼女の姿を求める。もちろん、彼女はいない。それどころか通行する人すらいない。
空を振り仰いで、赤い月を見つめる。再び、高揚感が胸を満たした。それは黒見の感覚を深く鋭くしていって、そして唐突に気が付いた。
「あっ」
『どうしたの?』
呼びかけに答えず、黒見は自分の指をかみ切った。たちまち血が溢れて、その香りと味が口に広がった。
「やっぱり……そうか」
先ほどから漂う香りの正体が分かった。
この複数の香りは、複数の血の香りだ。どこからか、風に乗ってやって来たのだ。強い香りはきっと、大けがをした人のものだろう。弱い香りは、ちょっと切り傷でも作ってしまったのか、それとも単に遠いのか。
あまりにも敏感な鼻はとても人間のものとは思えない。
かみ切ったはずの指を見ると、すでに傷一つ残っていなかった。
「本当に化け物にでもなっちまったのかな……」
『へ? ばけもの?』
みーちゃんの声が一オクターブ高かった。よほど意外な言葉だったのだろう。言った本人だって、そんな馬鹿なと思っている。でも、今は自分の体は後回しだ。
「切るよ、ごめんな。多分、きっと、急いだ方が良いと思うから」
『なになに? 何か解ったの? ねえ!?』
「それじゃまた」
黒見は受話器を置くと、着替えることもせず、急いで外に飛び出していった。
鼻に届くいくつもの血の香り。その中に、知った香りを見つけたからだった。
